決めて断つ
黒田 博樹
ベストセラーズ
2012-04-21

「黒田博樹カープ復帰」のインパクトは、やはり強烈だった。

現役バリバリのメジャー投手が、日本球界にもどってくる—

かつてなかった大ニュースに、プロ野球ファンのみならず日本中がわいた。
その一報が全国を駆け抜けてから新年をはさんで今にいたるまで、事態はおさまるどころか余波は広がるばかりだ。

当初は彼の「男気」を賞賛するストレートな驚きが圧倒的だった。ところが、いつからか彼の真意をさぐる憶測が飛び交うようになった。
そしていまでは硬軟賛否諸説が入り交じり交錯しているようにみえる。

「黒田がカープにもどる気になったのは、本当にカープ愛からなのか?」
「提示された年俸は、本当に4億なのか?」
などなど。

もちろん今回の“お祭り騒ぎ”が、コトの真相を知りたいというよりプロ野球談義の恰好のネタとなっているという側面は否定できない。
ただその議論が個人的な感情や、憶測のみによってひとり歩きしてしはじめていないだろうか。
もし議論が脱線していって、荒唐無稽な結論がひとり歩きをはじめてしまっては黒田の英断に対して申し訳がたたないことになる。  

そこで、黒田博樹みずからの著作である「決めて断つ」から、今回のカープ復帰へと至った彼の心境を検証してみたい。 

今回のことがあって同書を読み直してみると、あらためて意味を持って目に飛び込んできたフレーズがあった。

「とにかくお金をもらいながら野球をプレーする感覚が不思議だった。」

これは黒田がプロ入り1年目に感じたという心境を吐露した一節だ。

試合で投げても投げても結果がでなかったとき、 それでも決められた年俸は手にすることができる。
それが黒田にはなんともいえない違和感となっていたという。

いわれのない金銭を手にすることに、黒田は負い目のようなものを持っている。
この感覚は、今回の黒田の決断にいたった心境を類推するキーワードといってもいいだろう。

さて、黒田博樹はプロ野球選手として何度となく「重大な決断」を迫られている。
そのつど彼がどんな選択をしてきたのかを振り返ってみれば、おのずと今回の選択についても理解できるのではないだろうか。 

黒田が最初に「重大な決断」を迫られるようになったのはFA権をはじめて取得した2006年オフのことだった。 
このとき黒田は、まだメジャーに気持ちが入るところまではいっていなかった。 また国内ではカープ以外ではやりたくなかった。
それで黒田はFAを封印してカープに残留した。

彼がその選択をする過程で、広島市民球場のスタンドに残留を求める巨大な横断幕が掲げられ、それが彼の気持ちに訴えたこともあって、彼の選択にカープファンの熱意が少なからず影響したようにいわれた。

FA権行使か残留かで悩んだ黒田は、ファンの熱い思いに応えて「男気」残留を決めたというストーリー。
そのとき黒田の苦悩の軌跡は単純化され、いくらか美化されて語られるようになった。

たしかにファンの熱意が残留へのファクターになったことは間違いないだろうが、それが決定的なものだったかといえば疑問が残る。
ことはそれほど単純ではなかったようだ。

同書には、ともに癌で他界した両親についても語られている。
2002年のシーズン中に癌で亡くなった母親につづいて、父一博も2006年に癌を発症。黒田は広島に引き取って看病しながらシーズンを戦っていた。

その父はメジャーへの挑戦を後押ししてくれたが、闘病中の父の存在を度外視しての選択はできなかったと黒田は語っている。
この父親の存在が、彼のカープ残留の選択には大きくかかわっていたことは否定できない。

FA権を封印してカープ残留を決め、メジャーへの移籍権を条件に4年契約を結んだ黒田だったが、その2007年シーズン半ばの8月に父親が他界した。

言葉は悪いかもしれないが、と断りながら黒田は「両親を失ったことで肩の荷がおりて、本格的にメジャーでのブレーを考えるようになった」と語っている。

もともとメジャーでのプレイを想定もしていなかった黒田にとって、それは「夢」というような浮ついたものではなかった。
ポストシーズンの試合を現地に見にいっても、こころをゆさぶられることはなかった。
ただ、ひとつ上のレベルの野球をやっているところがアメリカにあるから、という発想だった。

そして2007年オフに黒田が選択したのは、メジャーへの挑戦。そしてロサンゼルス・ドジャースへの移籍だった。

そのときの心の葛藤について、黒田は多くを語っていない。
あのとき黒田の選択肢はメジャーへの転出と、4年契約をしていたカープ残留、どちらかだった。

カープ残留か、メジャー挑戦か。
その揺れについては、同書ではまったく紙数がさかれていない。
つまりカープ残留を選ばなかった、あるいは選べなかった理由にはまったくふれられていないのだ。

巷間いわれていた説のひとつは、FA権行使を検討する交渉の中で「優勝」したいとチーム編成に関して要望した黒田に対して球団からは冷淡な反応しかえられず、次第に移籍へと傾いて行ったというものだった。

それが事実だったのかどうか、定かではない。
しかし今回カープ側から「優勝するために必要だ」とオファーを受け、それに黒田の気持ちが動いての復帰ということらしいから、先の噂が理由のひとつであったことは反証されたとみていいのかもしれない。

ところで、ドジャースとの契約にあたって黒田は、4年契約を提示されながら3年契約にしてもらっている。
「契約の延長をと粘る選手はいるが、契約を短くしてくれといってきた選手ははじめてだ」と代理人は心底驚いている。

1年10億円の確約を断る—
誰もができることではない。

アメリカでまだ1球も投げていない投手なのに、そんな大金をもらうということに黒田は抵抗があったという。
それはカープ入団1年目に感じた、あの違和感に通じるものだろう。
 
ドジャースでは契約を1年延長して、結局4年間在籍している。
年俸面でも当初提示された契約と同等の条件でプレイしたことになる。

ただ回り道をしただけのような結果になったが、黒田はその道を歩かなければ納得しなかった。
これが黒田の黒田らしいところだ。

ドジャースとの契約を延長した 2011年の7月。シーズン途中にトレードの話がもちあがった。
そのシーズンオフにFAとなる黒田をねらって、ヤンキースをはじめ優勝を争っていたチームのいくつかが触手をのばしてきたのだ。
優勝戦線から離脱したチームから、優勝のために戦力を引き抜く。メジャーでは当たり前となっている“恒例行事”だ。

ここでも黒田は「重大な決断」を迫られることになった。
そのときの黒田の結論は—
「シーズンの後半に2か月だけ新しいチームで戦って、たとえ優勝しても本当に喜べるのだろうか」 と、トレードを拒否することだった。

すべての球団に対するトレード拒否権を持っていた彼は、ドジャースへの残留を決めた。

優勝の可能性の高いほうを「断ち」、長い時間をともにしたチームメイトとの可能性の薄い優勝にかける。
この選択も黒田らしいものだったが、このチョイスはメジャーではありえないことだった。

黒田は通例ではありえない選択を、その都度してきていた。
今回のカープ復帰ばかりが異例なのではなかったことを、ここであらためて認識してみるべきだろう。

2011年のシーズンが終わってドジャースからFAとなった黒田は、
また「重大な決断」を迫られることになった。

FAを行使するにあたっては、「自分がどのような評価をされているのか知りたい」というおもいがあったと黒田はいう。
本音ではドジャースに気持ちはあったようだが、経営権の問題で揺れていたドジャースは具体的な年俸を提示できなかった。

黒田にはメジャーの数球団からオファーがあった。
迷いに迷った結果、黒田はふたつの球団に選択肢をしぼった。
ひとつがニューヨーク・ヤンキース、そしてもうひとつが広島東洋カープだった。

それからも黒田は悩みに悩んだ。
カープとヤンキースとでは、選択の価値基準がまったくちがっていた。
金銭的な評価でいえばヤンキースとはくらべようがなかったし、心情的にはカープと同列には語れない。そのふたつを天秤にかけられるはずもなかった。
「年俸だけで決められるなら、どれだけ楽だったことか。」との述懐は、その悩みの深さをよく伝えている。

悩みに悩んだ末に黒田はカープに復帰することに決めた。
その事実は、ヤンキース移籍が決まってから出版された「決めて断つ」によって本人の口から語られることになった。
「カープには愛着を持ちつづけていたし、まだ第一線で活躍できうちに日本でもう一度プレーしてみることは魅力的なアイディアだった。」のだ。

 2012年1月。カープ復帰を決めた直後のある夜、黒田は家族と食事にでかけた。
その日までにメジャーに残るか日本に帰るかを決めることにしていた黒田は、マネージャーを通じてヤンキースに断りの連絡を入れてもらっていた。

しかし、あらたな門出の祝いになるはずの会食なのに気は弾まない。 判断が間違っていたのではないかという迷いが生まれ、決断に自信を失ってしまっていた。

「まだ(メジャーに)未練があるんじゃないか」
それで「結論をもうすこしだけ待ってほしい」と、エージェントを通してヤンキースに連絡をいれてもらった。
するとヤンキースは人生の重大な悩みに直面していることに理解をしめしてくれ、もう1日時間をくれた。
その寛容な対応に接して、気持ちはヤンキース入団にほぼ固まった。 ヤンキースが本当に自分を必要としてくれていると感じたからだった。

時差の関係でカープにはまだ連絡は入れていなかった。
もし黒田の決心がすぐにカープに伝えられていたら、彼はあの年にカープに復帰していたことになる。
運命の不思議なアヤを感じざるを得ない。

そしてヤンキースで3年間ローテーションを守り切り、メジャー最高のチームでエース格となった彼は、FAを行使してカープへの復帰の決断した。

結果はカープへの復帰。
また黒田は回り道をしたことになるが、今度カープに帰ってくるときは「メジャー最高の投手」の称号を手にしていた。
いかにも黒田らしいめぐりあわせといわざるを得ない。

そのカープに対して彼は、具体的にどのような印象を持っていたのか。

『じぶんを育ててくれたチームということで感謝の念があるし、愛着の持てる球団だ。 選手を育てる意識や地元への密着度も高い。客観的に見て「いい球団」なのだ。
ただ、こうした愛着は環境に恵まれていたとか、そうしたことから生まれるものではない。 人と人とのつながり、それが大きい。』

彼はカープ球団という組織に特に思い入れがあるというわけではないようだ。先輩から後輩へと受け継がれたチームカラー、関係者たちが連綿と築いて来た人と人とのつながりに愛着を抱いていた。
そして、そんなチームでプレイすること、そして優勝を目指すことを選択した。

ここ数年のカープ人気は、黒田も身をもって知っていた。
「カープファンの元気のよさに僕自身、驚いている。特に関東のゲーム、神宮や横浜、東京ドームでさえもカープファンの姿が多くなってきた。 神宮でカープ戦を観たときの驚き」を同書でも語っている。

そんなカープの勢いに惹かれてといったことも、今回の決断の背景にはあっただろう。
しかし、目の前に目標を設定してひとつひとつ階段をのぼるようにメジャーの高みへと到達した黒田にとって、それより上がないヤンキースでプレイしてしまったことで、カープ復帰への自然な流れができたとみた方が妥当なのではないだろうか。

こつこつと地道にステップアップしてきた野球人生を一度清算して、あらたな野球を愉しむ—
野球人生の最後に、自分を育ててくれたカープで、チームメイトとともに優勝する。
それこそが彼にとって「魅力的なアイディアだった」のだろう。

マネージャーの小坂勝仁はいう。
『黒田の発想はアメリカに来たときから変わっていません。 最初にドジャースと契約するとき、4年契約を3年契約に減らしました。目の前に提示された10億円以上のお金を彼は要らないと言ったわけです。
おそらく、3年だったら自分の将来を見通せるというか、現実的に捉えることができたのでしょう。4年という、見えない未来に対しては、いくらお金を積まれても、自分としては譲れない部分があったのだと思います。それは「黒田博樹」のプライド、野球に対するプライドだったと思います。』

今回の黒田の決断を個別のケースとして判断してしまうと見落としてしまうことになるが、黒田はいつも「誰も選択しない道を選択する」黒田だった。

代理人のスティーブ・ヒラードはいっている。
「究極の自己評価の低い選手。自己評価とマーケットの評価のバランスがこんなに違う選手は見たことがない。これだけ謙虚な人間がいるのか」と。

カープ球団が提示した年俸がマーケットの評価にくらべて破格に低かったことから、それを受け入れた黒田の「男気」がかえって疑われることになった。
評価にふさわしい年俸、たとえば10億円前後の金額を提示していれば、たぶんこのようなセンサクの嵐に彼はみまわれることはなかっただろう。

「多少金額的には不満であっても、納得して帰って来てくれた」
それが素直に彼の「男気」として評価されたにちがいない。

カープ球団の「せこさ」というバイアスを通してしまうと、信じられない決断とみられてそこに疑念が生まれてしまった。 とても不幸なことだ。

黒田の今回の決断は、それをセンサクするわれわれの価値観、人生観を問うことにもなった。
経済的な価値観にしばられている人間は、その価値観から脱して判断はできないし、人と人との関係に重きを置いている人間は、彼の「男気」を素直に受け入れることができるのだろう。

ひとが決断を迫られるとき、彼の気持ちの動きに整合性があるわけではない。迷い迷って激しく揺れるものだ。 
「1日、1日、いや、1時間ごと、日によっては10分、5分ごとに気持ちが揺らぐような状態が続いた」と黒田も同書で述懐している。

悩みや迷いを合理的に結論づけるのは、そもそも無理なのだ。
それならば今回の黒田博樹の英断をまるごと受け入れて、我々はただただ素直にエールを送ればいいのではないだろうか。

                        カープ本評論家 堀 治喜

カープ本100冊。すべて読んでみた!
広島野球ブックフェア実行委員会
広島出版
2014-12-25