きょうは広島の原爆記念日。
69年前のきょう8月6日、人類史上はじめてアメリカが一般市民の頭上に原子爆弾を投下した日だ。

キャプテン・ティベッツが操縦する大型爆撃機B29「エノラ・ゲイ号」から放り投げられたおちびさん「リトルボーイ」は、広島市の上空600メートルで炸裂し市内中心部は熱線と爆風で壊滅した。
そして放射能による緩慢な死…

20万人が犠牲となったといわれるこの惨事の記憶をあがなうのに、いったいどれほどの慰霊の時間が必要なのだろうか。

原爆が投下された午前8時15分をはさんで、きょうも平和公園では慰霊祭が行われた。
例年ほとんど雨はなく、被爆当日をおもわせる猛暑のなかで祭典は挙行されてきた。
ひとびとは体感を通して当時におもいをはせ、慰霊の気持ちをあらたにしてきた。

ところが、ことしはいつもと様相がちがっていた。

颱風の影響で豪雨に見舞われていた広島市。 おごそかな式典に、文字どおり冷や水をあびせるような土砂降りだった。
それは憲法を拡大解釈して、実相も知らぬまま戦争につき進もうとしている安倍総理が列席していることへの被爆死者からの強烈なメッセージでもあったのだろうか。

広島平和公園の慰霊碑からは、はからずも「被爆の象徴」となってしまった原爆ドームがのぞける。その背景には商工会議所のビルと、隣り合わせに広島市民球場の照明灯…。

上空に手を差し伸べて、希望の讃歌を歌っていたかのように見えた照明の鉄塔。しかしその姿はいまはなく、球場は跡形もない。
もうしわけていどに、そして存在理由もないままライトスタンドの一部が残され、あとは荒れ地同然の更地となってフェンスに囲われてしまっている。

被爆から12年後、カープが誕生してから7年後。爆心地近くに広島市民球場は誕生した。
まだ広島が復興の途上にあって、なにもかもが不足していた時代。それでもカープに希望をたくした市民の後押しで建設されている。

この球場が被爆にうちひしがれた市民の希望の器となり、時とともに復興のシンボルとなっていったことは自然のなりゆきだった。

その球場が解体されて、すでに3年になる。
半世紀にわたって市民とともにあった球場が、継承されるべき存在理由をくつがえすだけの根拠もないまま解体された。

それまで静的な慰霊と動的な祈り、という絶妙なバランスのうえになりたっていた広島市。
その片方が喪失して、いま広島市の中心部は求心力を失ったまま片肺飛行で迷走しているように映る。

きょうの土砂降りはまた、慰霊と復興のシンボルの片方を無自覚に欠いてしまった広島市に対する被爆死者の無言の抗議でもあったのだろうか。

慰霊祭の式典が終わったころ、ようやく雨はあがり
広島の上空に静けさがもどってきた。