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 やっと勝ちました、カープの野村投手。
これで5勝目。2か月ぶりに勝ちがついたとか。よござんした。  

一方、このところ快調に飛ばしてきてAクラスも射程距離に入れた横浜でしたが、昨夜は勝ち頭の久保投手が打たれて、あさりと完封負け。ようやく視界にとらえたコイをクジラは呑み込みそびれてしまいました。
 
てか、クジラは喩えにならない?  
そうでしたね、いま横浜は「鯨」じゃなくて「湾星」でした。
ころころ名前が変わるんで、こんがらがっちゃって。(笑  

ところで、きのうご対戦の「カープ」と「ベイスターズ」の両チーム。プロ野球が昭和24年に2リーグに分立したときに誕生した、いわばプロ野球〝第二期生”ですね。  
カープは市民や地元財界が資金的に支える“市民球団”として。ホエールズは、捕鯨で一発当てた中部家の大洋漁業がオーナーとなって誕生しています。  

それから60有余年をへて、カープは“市民球団”から“松田家の個人商店”となり、ホエールズはモバゲーが親会社。世の栄枯盛衰を感じないわけにはまいりません。  

ところで、横浜DeNAの前身である大洋ホエールズが一時、「大洋松竹ロビンス」と名乗った時期があったのをご存知でしょうか。
「松竹ロビンス」というチームと合体しての「大洋松竹ロビンス」。わかりやすいというか、安易というか。

ちなみに昭和25年、プロ野球が2リーグに分立して迎えたシーズンにセリーグの初代チャンピオンとなったのは松竹ロビンス。 それが後述の理由ですぐに弱体化し、「リーグ最下位となったチームは吸収させる」とかいう時の特例に見事にハマって合併の憂き目にあうことになったのでした。

で、その松竹ロビンスというチームのオーナーだったのが、この著書「球団消滅」のモデルの田村駒治郎という男です。   

駒治郎は職業野球が結成された翌年、昭和12年の夏、「大東京軍」という球団のオーナーになっています。
もともとが野球好きでプロ球団のオーナーになりたいと夢を抱いていたところに買収話が持ちかけられたというのですから、棚からぼた餅ならぬ、瓢箪から駒(治郎)がでたというんでしょうか、イケイケドンドンのお方はちがいます。

駒治郎はクジラならぬ糸偏、つまり繊維で当てて財をなした男なんですね。そして一代で財をなしたワンマン社長のご多分にもれず、彼も大変わがままで気まぐれでした。

約束を破って監督は怒らせるは、選手の贔屓はするは、もちろんゲームに口をはさむなんてことは日常茶飯事。はては勝手に二軍を独立させたりして、やりたい放題。チームはすぐにがたがたになってしまいました。
遠からず彼の球団が「消滅」するのは約束されていたのでしょう。  

彼の気まぐれぶり。それは下記の球団名の変遷を見てもらえば、一目瞭然でしょう。  

 大東京軍(買収前の球団名)  
 ライオン(ライオン歯磨きにネーミングライツを売って)  
 朝日軍(戦時「ライオン」が敵性語にあたると)  
 バシフィック(ただの気まぐれから)  
 太陽ロビンス(駒治郎の名前からコマドリのロビンスを?)  
 大陽ロビンス(野球は点を取ってなんぼやとの思いつき)  
 松竹ロビンス(松竹の資金援助を受けて)  
 大洋松竹ロビンス(ホエールズと合併して)  
 洋松ロビンス(簡略化)  
 大洋ホエールズ(ロビンスの呪縛から解放?)  

プロ野球の球団は、とんでもない金喰い虫。これを駒治郎のように「道楽」としてつづけることは不可能です。  

松竹ロビンスが大洋ホエールズと合併した昭和28年、ロビンスは駒治郎の手から離れます。そのとき会社の田村駒は多額の欠損を計上するまでに経営は悪化、駒治郎は球団経営どころではなくなっていました。  

そして球団を手放してから8年後、駒治郎は心臓発作で息をひきとっています。  
享年57才。野球の夢と引き換えにしたのでしょうか、短命な生涯を終えています。


※この投稿はつぎの書籍 を参考にしました。


 

佐賀北の夏 [ 中村計 ]
佐賀北の夏 [ 中村計 ]

勝てません。

これでカープネタでは、前田、大瀬良、野村3投手の「勝てません」3連発になってしまいました。

きのうの対ヤクルトスワローズ戦で先発した野村祐輔投手は、
攻撃陣に足を引っ張られて自責点0で負け投手。これで6試合連続の未勝利だとか。

「ズムスタには疫病神が潜んどる!」
きのうの野村投手は、そんな泣き言のひとつもいいたかったんじゃないでしょうか。

なんでもないイージーゴロはトンネルに、送球すれば天ぷら暴投のキラに足元をすくわれ、彼の前を打つエルドレッドは、あいもかわらぬ舶来の大型扇風機。

リスキーな外人頼みのいびつなチーム編成の犠牲になったといっても過言ではない野村投手。同情を禁じ得ません。

同情といえば、つい思い出してしまうのが2007年夏の甲子園。決勝戦での野村投手の悲運です。

すでに高校生離れした卓越したピッチング技術を持っていた野村投手は、まずは順当に勝ち上がっていきます。

  1回戦 駒大苫小牧 5対4
  2回戦 東福岡  14対2
  3回戦 聖光学院  8対2
 準々決勝 今治西   7対1
  準決勝 常葉菊川  4対3

これがその足跡。

そして、佐賀北高校が相手となった決勝…

野村投手は7回まで被安打1本、もちろん失点0とほぼ完璧に佐賀北打線を抑えていました。

一方の広陵打線は2回に2点、7回に2点を加点して4対0のスコア。
あの“魔の8回”が来るまでは、野村投手の勝ちを疑ったファンはほとんどいなかったでしょう。

ところがその8回裏。野村投手は簡単に1アウトを取ったものの、次打者にライト前にヒットが出たところで、スタンドの雰囲気が一変してしまいました。

甲子園の「公立びいき」もあったのでしょう、それまで
接戦、延長戦を制して勝ち上がってきた佐賀北に「ドラマの匂い」を感じたこともあったのでしょう、甲子園は佐賀北への応援一色。
たった1本のヒットをきっかけに、怒濤のような拍手と歓声でアルプススタンドが揺れはじめました。

ある解説者が「声援が風圧になって押し寄せて来て倒れそうだった」というほどのプレッシャー。それが野村投手に襲いかかったのでした。

一球一球に沸き立つスタンド。
その声援のプレッシャーに制されたかのように、微妙なコースを突く野村投手のボールに、主審の右手は上がりかけては止まってしまいます。

根負けしての四球、そして苦し紛れに投げた甘いタマは痛打され、最後には
逆転満塁ホームランをアルプススタンドに運ばれるしまつ。
目の前に勝利の女神が微笑んでいた天国から、またたく間に地獄に突き落とされてしまいました。

でもあの日の苦い経験が、いまの野村投手の血肉になっていることはまちがいないでしょう。

勝ちに喜びがあるように、負けには学びがある。
そして夏が過ぎれば、またあらたな夏がやって来る…

そういえばきょう、その野村投手の母校広陵高校が第4試合で甲子園の土を踏むことになっていますね。


 

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